この本は、平均的な起業家は、いかに華やかなものとはかけ離れており、泥臭い敗残者達であるかを描き出した本です。
起業家の多くは、転職を繰り返し、そのあげくに失業し、小さな会社を立ち上げて自営業とはなるものの、その会社も永遠に成長することがなく、ほとんどが自分一人だけの事業のまま終わる。という起業の現実を描き出しています。
本書では、起業というものは基本的に、仕事の無い人が、なんとか仕事を作り出そうとする試みであり、仕事が無いところ(田舎や発展途上国)でこそ起こるということを示しています。そうした人々はサービス業や建設業など自分の働いていた業界において、少ない資本で起業します。そして、その結果はあまり芳しくなく、大企業で働くよりも少ない成果しかもたらしません。
本書の問題点は、全編が「既存の○○という考え方は間違っている」という形で記述されており、むやみに既存の「幻想」なるものを攻撃するばかりの書き方である点です。少なくとも日本においては、起業なるものにそんな素晴らしい幻想を抱いている人は滅多にいないと思うので、著者の攻撃的な姿勢には鼻白むばかりです。
また著者はしばしば統計的事実をむやみに一般化して全てのケースに適用しようとしています。
さらに最も大きな問題は、意図的に「ベンチャー起業家」と「自営業者」を混同し、ベンチャー起業家への期待を自営業者の低パフォーマンスという証拠で否定するというミスリーディングな論調です。この本で述べていることは「自営業者」に関することばかりであり、ベンチャー論はほとんどありません。
それでも、本書はいくつかの重大な示唆を与えてくれます。
まず一つは、転職を繰り返したりしたあげく、あてもないのに起業するのは極めて危険だということです。無能な人が無能であるがゆえに起業するというのは、(当たり前ですが)危険です。自分の貯金を投じて、低い収入に甘んじたあげく、倒産して最後に残るのは借金だけという結果に終わります。若いうちならともかく、年を取ってそういうことをするのは、まさに致命的かもしれません。
日本における常識人の認識としては、起業家とは無職の一類型であるというものですが、まあ、それは当たらずとも遠からずなのでしょう。
もう一つは、もし起業するなら「起業に適した産業を選ぶ」「チームで起業する」「株式会社を作る」「ビジネスプランを策定する」「資本を多く調達する」「頑張って事業を長く存続させる」「大学院を出てから起業する」などをすることで成功の確率を高めることができるということです。スタンフォード大学院を出て、シリコンバレーでベンチャーキャピタルから投資を受けてITスタートアップを立ち上げるほうが、どっかの田舎町で美容院や建設業を立ち上げるよりも良いということです。
また、この本を読むことを通じて、自営業者とベンチャー企業の違いを感じとることが出来ます。
私のように無能な起業家の一員としては、こうした本を読むのは本当に不愉快極まりない体験なのですが、これから起業しようとする人は読んでおいても良い一冊です。
たいして優れた本では無いので、起業と関係の無い人はわざわざ読む必要はないでしょう。
ところで、本書の著者は、零細起業家はろくでもない無職もどきなので補助金などを投じるべきではないと言っています。
その意見について、私は半分賛成でもあり、半分反対でもあります。
既に職がある人に補助金を与えて起業させる試みは危険であると思います。起業とは失敗することが大半なのですから、わざわざ有職者を道に迷わせる必要はありません。
しかし世の中には私を含め、既存の社会や会社には適応できず、自営業として何とか生き延びている零細・弱者が大勢居ます。そうした人の存在を無視するべきではないとも思います。
たとえばコンサルタントの栢野克己氏などは「弱者」「零細」「社長」「人生逆転」に特化したコンサルティング・講演などを専門にされています。
現実の多くの起業は泥臭いものなのですから、TechCrunchのような華やかなストーリーよりも、栢野克己、竹田陽一、神田昌典などのような弱者向けの本こそが多くの人の役に立つのだと思います。
ま、補助金がそうした弱者救済の役に立つかどうかはさておき、社会には華やかな成功者だけでなく、底辺で泥水をすすって生きている大勢の人がいるのだ、ということを忘れないでもらいたいものです。
「起業という幻想」の著者が、そのような弱者たちの苦闘を小馬鹿にする姿勢でなければ、もっとずっと良い本が書けたと思うのですが・・・
バカにしてるようには読めなかったけど、当事者的にはそう感じるもんなのね。
返信削除「小馬鹿にする」は言い過ぎかね? 「全く愛が無い」くらいでどう?
返信削除「起業という幻想 - アメリカンドリームの現実 」は、いろいろな意味で興味深い本ですね。
返信削除>意図的に「ベンチャー起業家」と「自営業者」を混同し、ベンチャー起業家への期待を自営業者の低パフォーマンスという証拠で否定するというミスリーディングな論調です。
のところですが、統計的事実としての起業を言っているので、冒険資本の入った「日本語でいうベンチャー」起業と個人・家族資本の自営的起業とを区分しないで、先に定義した、という感じだと思います。
また、パーフォーマンス的には冒険(venture)資本を誘致した資本集積のある起業の方を重視していることは、最後のまとめに近いところで書いてあるようです。
(筆者の本業もアントレプレナーによるイノベーションマネジメントの研究、関連ポリシー研究のようですし)
http://weatherhead.case.edu/faculty/Scott-Shane/
また、資本集積の低い自営的起業が途上国の形態として妥当であると示してはいるので、一概に自営業者を「無能」とは言っておらず、むしろ、統計的プロファイルとしては、世間一般的に普通な人であり凡庸、ただひいては、先進国では経済や「能力」上不利な条件で起業することが多め、という感じかと思います。
が、筆者がウォートンスクールのエリートだからかどうかは知りませんが、「成功=能力」をステレオタイプ的に捉えているところがあるかもしれません。
個人的には個々人の経済成功の成否は、風に吹かれていい種が条件の悪い土地に落ちる確率も、わるい種がよい土地に落ちる確率も同じようなものだと思っており、成功要因への「運」の要素が過小評価されていると感じますね。
資本の既得権益化や地球上のあらゆる粒度での経済格差の問題など、さまざまな未知の能力が発揚するための「運=機会」の継続的かつ効率的な提供、その施策についての工夫がより必要であり、行政、社会的起業においてもそこを意識するべきだと。
というのもそうですが、新井さんがどちらかというと若干以上は成功者である割に「無能者」と標榜するのもどうかとも・・・