2014年8月26日火曜日

悪徳を擁護する ― 私は今日をもって児童ポルノ擁護派に転じます

これまで私は、児童ポルノ規制反対という明確な立場ではなかったけれど、ここ数日の以下のニュースを見て、「児童ポルノ規制」というのは現代の魔女狩りであり、ナチスや北朝鮮を超える恐ろしい超監視社会の全体主義国家を誕生させる契機ともなりかねないと感じ、児童ポルノ擁護派に転ずることにしました。

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2001年の航空機テロ以来、アメリカ合州国を中心として、自由社会や自由主義へのアンチテーゼとも言える動きが見られるのを目にしてきました。

テロとの戦いで、市民のプライバシーを侵害したり、空港で全裸スキャナーを稼働させたり、無駄な手荷物の規制などを導入したり、無関係な国に戦争を吹っ掛けたり、多くのことが起こりました。

動物愛護団体は、自分たちの主張を多くの人に信じ込ませ、単なる道徳的信条を法律による規制として他者に押しつけようとしています。それどころか日本がクジラを食べる自由を侵害するなど、内政干渉にまで及んでいます。

そして児童ポルノ規制は、欧米では魔女狩りじみた狂った状況になりました。児童ポルノは、ヘロインのように所持しているだけで重罪となるだけではなく、そのためならインターネットの大企業まで協力して、市民のプライバシーを完全に無視して行動しています。

現代のIT技術では全てのコンピュータはインターネットにつながり、極めて複雑なソフトウェアにより制御されています。そのため自分のコンピュータであっても、完全なコントロールを得ることは、ほぼ不可能です。

そうした状況下で、犯罪対策のためといえども、ITの主要な部分を握る大企業が、市民のプライバシーを自由に侵害できるとしたら、どんな社会になるでしょうか?

そして、もしそのプライバシーの侵害を、狂信的な政府が悪用するとしたら、どんな恐ろしいことになるでしょうか?

政府の許容する以外の一切の思想は取り締まられ、思想を持った瞬間に処刑されるような世界のできあがりです。


なぜプライバシーや自由を守るために、児童ポルノを擁護する必要があるのか? と思うかもしれません。単にプライバシーや自由の侵害だけに反対すればいいじゃないか、と。

しかし私は気づいてしまったのです。人間社会はしばしば抑圧的な社会を自ら作り出そうとするということに。

抑圧的な社会を作り出すために、「児童ポルノ」だとか「動物虐待」だとか「テロリズム」だとかいった悪役を生み出して、それを叩くという名目で抑圧を生み出すのです。

人々の怒りや善意の感情を巧みに動かして、抑圧を生み出します。

悪役への抑圧があるときに、単に個別の人権侵害事案にたいして立ち上がるだけでは、「抑圧を生み出す本質的構造」と戦うことができないと思うに至りました。悪役への憎悪や恐怖を生み出す構造自体と戦わねばならないと思います。

多くの人にとって児童ポルノは不愉快かもしれないが、それでも児童ポルノを所持して鑑賞することは犯罪にすべきでないと私は思います。配布することも犯罪にすべきではないかもしれないとすら思います。感情的になんでもかんでも違法にするのは間違っています。

たしかに、児童を使ってポルノを撮るなど言語道断でしょう。例えば、意味も無く動物を虐待する行為は、多くの人が不愉快に思うでしょう。ましてや飛行機を乗っ取って高層ビルに突っ込むなど、いかなる弁護の余地もありません。

しかし、だからといって、そうした行為への憎悪や恐怖が、独裁や抑圧へのフリーパスとなってはいけません。「児童ポルノなんて擁護することすらも許されない」というような考え方が蔓延することは、市民の権利にとって最も恐れるべき状況です。

どんなに憎むべき行為であっても、頭を憎悪に燃やし、怒りの余り何も考えられなくなるのは極めて危険です。

本当に規制されるべきものは何なのか、保護されるべき対象はなんなのか、冷静にそれを明確にしなければ、際限の無い抑圧を招くばかりです。

それを防ぐためにも、誰かが「擁護できないものこそを擁護する」立場に立つ必要があるのです。


テロリズムに関して言えば、飛行機を乗っ取られたり爆破されたりすることが防げればいいでしょう。しかし100%の安全性などというものは実現不可能なのですから、現実的な線で妥協をしなければならないのです。

多くの人が自動車の交通事故で死んでいきます。それに対して、飛行機は圧倒的に安全です。それを飛行機に余分な安全対策を課したがために、自動車に乗る人が増えれば、より多くの人を殺すことになります。

動物愛護に関して言えば、動物の残虐な取扱を禁止する倫理的根拠は極めて薄いように思います。「動物を愛護すべき」というのは、あくまで動物愛好家の信念にすぎないのですから、それを「動物を愛護したくない」という人にまで押しつけるのは、自由を不当に奪うものであると考えます。

もちろん現代では多くの人が動物を愛好していますから、動物を扱う産業などには動物の倫理的な取扱を定めるようなことは、それほどひどい自由の侵害とは言えないかもしれません。しかし「動物愛護」を金科玉条として、人間の価値を下に見て、医薬品の動物実験を規制するようなことがあれば、恐ろしい被害を人類にもたらすでしょう。

児童ポルノも同様です。

児童ポルノを所持して鑑賞したり、それを配布したりすることで、児童にどれほどの害が及ぶというのでしょうか? 児童ポルノを製造したり販売したりすることに比べれば、圧倒的に少ない害しか及ばないと言わざるを得ません。

私はリバタリアン(自由至上主義者)ではないので、「児童が自由意志において経済的対価をもらってポルノに出るのは自由じゃないか!」とまで主張するつもりはありません。

児童ポルノや児童買春は、児童の自由意志が十分に確認できないという点で、ある年齢以下は禁止して一定の罰を与えることはある程度の合理性があるとは思います。児童ポルノ製造も販売も禁止する合理性はあるでしょう。販売は製造のインセンティブになるので。

しかし児童ポルノの製造といえども、現状ではあまりにも幅広く捉えられすぎています。児童が自分のヌードを友人に送るだけで児童ポルノ製造罪と捉えられる恐れがあります。そのような間違った立法は直ちに是正すべきです。

また英米で児童ポルノ製造や児童買春が、大量殺人のような重大犯罪と捉えられるのは、あまりにも行き過ぎであると言わざるを得ません。日本がそのような社会にならないことを切に願います。


自由を制限する動きは、善意を装ってやってきます。

悪徳こそが自由にとっての炭鉱のカナリアです。悪徳にも寛容な社会こそ、普通の人にも寛容な社会であるのではないでしょうか。悪徳を擁護することが、自由社会を守ることだと思います。

だから、私は大手を振って自分の悪徳を認め、悪徳を擁護していきたいと思います。

こんなことを堂々と書いたらアメリカ合州国に入国できなくなりそうですけどね・・・

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